この時代の記憶を共有すること

柿崎:wowlabでされていることは、アートとデザイン、両方の要素をもったプロジェクトということなのですね。

鹿野:両立を目指しています。人間の意識は、今、この瞬間しか持っていないわけですから、考えようによっては、とても刹那的です。だから、結局のところ、いかにいい記憶を作るかとか、いい思い出を作るかということが人間の価値観に大きく関わってくると思っています。
自分しか知らない思い出を、人知れず忘れていく中で、思い出をいかに作るかということですね。そう考えると、記憶に残らないものは作りたくないですね。例えば、大量に複製したとしても、誰の心にも残らない場合、もし金銭的な機能を満たしたとしても、作り出す動機が見いだしにくい。
 極端な例ですが、四葉のクローバーありますよね(笑)。三つ葉が沢山ある野原に、四葉がたまにある。人はその四葉を見つけるとちょっと嬉しくなる。この考え方がとても重要ではないかと。結局、合理的に考えれば社会の中では三つ葉だけがあれば良い。でも四葉がある事で、社会というものが驚きを秘めた楽しいものに思えてくるわけです。

柿崎:それはフェスそのものの性格についても当てはまると思います。フェスティバル自体が日常の流れの中に出現する非日常的な祝祭空間なわけです。祝祭空間が人間の歴史に果たしてきた役割を振り返るだけでその重要性は理解できます。

鹿野:「日々のルーチンからの解放」がアートだと思うんですね。たまさかというかですね、偶然得る美しさだったり、面白さ、喜びがとても重要だとおもいます。ビジネス的は直接経済に結びつかないと思われがちなものが、いかに人間にとって重要かということです。これは勝手な持論ですが(笑)。そういうたまさかな感動や喜びが一切無い社会は、本当につまらないものでしょう。

柿崎:僕は根本的な疑問を昔から持っていて、人間の意識の連続性が保たれていることに対する疑問です。今こうして話していることも、記憶として半永久的に保存されるというわけでもありません。生涯全ての記憶を保持することは意識レベルではできていないですよね。しかし、変化にさらされながら同一の個体としての連続性を持っていることが不思議なのです。そして、人間もひとり一人が全て違った個体として連続した意識のもとに生きています。そして、この違いというものを作り出しているのももしかしたら、鹿野さんの言う記憶や思い出のようなものなのかもしれません。そして細胞単位でいうと1日に2,000億くらいの細胞が入れ替わっています。それが人間です。

鹿野:今の脳の細胞は、数日前に食べたものらしいですよね。ほとんどの細胞が次々と入れ替わっていく。なのに記憶が維持される。しかも脳にはコンピュータで言うところのハードディスクが無いらしいんですよ。全てがニューロンの時間的な発火パターン。不思議ですよね。記憶は記憶に結びついているらしく、連想が連想を呼ぶらしいんです。ですから、何かを思い出すと、それに関連した記憶も浮かび上がってくる。それが楽しさに繋がるのではないかと。ルーチンワークでは記憶はどんどん沈んでいくような気がするんです。

柿崎:発火する時間的パターンが記憶というのは面白いですね。思い出し方というのはどうなっているんでしょうか?

鹿野:思い出すためには、思い出すだけの価値がある出来事が必要だと思います。たとえばおとといのお昼に何を食べたかは、なかなか思い出せない。でも数年前に旅行で食べたメニューは未だに覚えていたりする。それは素敵な思い出だからです。日常ではなく非日常の記憶。旅やお祭りなど人はことあるごとに、流れ行く時間を記憶に残そうとしているように思えてきます。
 話を戻しますが、今の記憶を残すために、作品作りには今の技術を導入する必要があるような気がします。その方が記憶と時代が関連性を持つのではないかと。たとえば200年前に既に完成した技術を僕らがまた再現するというのは、あまり意味が無いと思います。儚いと思いながら、今ある技術を使っていく。一種の花火的なものかもしれません。

柿崎:「原始時代のように松明持って洞窟の壁画を描こうとは思わない。最新技術を常に作品制作に使って行きたい」と語ったアーティストがいました。最新技術に挑戦していくことしか活路がないと。

鹿野:そうですね。ちょうど30年前から40年前、情報とモノが離れました。情報の主体である文字は、紙という物質に付随したものでしたが、紙から離れて電気的パターンに、信号として世界中を流通するようになったのです。だったら、それを使わない手はない、それを使った何かをやりたいということです。